梅雨の手当てで雨滴声を楽しむ
「雨滴声」という禅語があります。
一口に雨音と言っても、屋根を叩く雨音、草花に降りしきる雨音、軒先から一滴ずつ垂れていく雨音、様々です。色々な雨音に耳を傾けていると、何とも面白く静かな気持ちになります。
しかし身体にとって梅雨というのは実に厄介な季節です。身体の不調を訴えて整体堂を訪れる人も多くなりました。
じめじめしていると洗濯物が乾かないように、身体における水の循環も悪くなるのだと思います。
気圧のせいか湿気のせいか、呼吸がうまくできなくなり、気分も塞ぎやすくなります。
腎臓、肝臓、心臓、肺とさまざまな臓器に負担がかかり、その結果全身がくたびれてきます。そこに梅雨の冷えが加わると足腰頭が痛くなることがあります。
梅雨をうまく乗り切るには、足の指をひっぱり身体をよくねじって、水の循環をよくします。そして肝臓と心臓に手当てをして、血をきれいにします。さらに目に手を当てて疲れを取り、梅干しや味噌汁などで胃腸を整えます。
梅雨の晴れ間には散歩に出ましょう。野口晴哉先生は大股で上を向いて歩くことをお勧めされています。太ももの裏が伸びると呼吸が楽になります。
身体が元気になれば梅雨もまた良しです。「雨滴声」を楽しみつつ日々を送るのも乙なものです。
神山の茶葉で紅茶づくり
梅雨になりました。
肌にまとわりつくような湿気は鬱陶しい限りですが、畑の野菜と草たちは大いに元気で伸び盛りです。
花の季節の春が終わり、近所ではスダチ、柿、キウイ、それにザクロも小さな実をたくさんつけています。
少し前になりますが、五月初旬の茶摘みの季節「八十八夜」の頃に、ご近所の農家さんの畑で初めての茶摘み体験をさせていただきました。
つやつやの新芽を、この春伸びた枝の分だけ摘み取ってゆく作業です。
日本茶には茎の部分が大切で、葉だけしごきとってはお茶にならないそうで、古い枝と新しい枝のちょうど境目で折り取るのは、初めてだとなかなか難しい作業でした。
10㎏の茶葉を製茶場に持ち込むと、翌日には2㎏の新茶を受け取ることができます。
ツバキの仲間にはチャドクガなどの毛虫がつきもの、という印象があったのですが、風通しのよい場所で、きちんと刈込など手入れがされていると、無農薬でもほとんど虫は付かないのだそう。
神山町は山がちで風も強いため、お茶に消毒する人はほぼいないのだと聞きました。味も甘みがあり、美味しい緑茶ができます。
畑でも、色々な苗を植えると、育つもの、枯れるもの、様々ですが、適材適所ってあるのだなあ、と思います。
その土地にあった作物を無理なく育てること、その季節に自然に手に入る恵みを感謝していただくこと、それがきっと、人にも自然にも適った農業なのだろうと思います。
さて、せっかく生の茶葉が手に入ったので、少量でも手作りのお茶も試してみたいと思い、今回は緑茶よりも手軽な紅茶づくりにトライしてみました。
まずはお茶の葉を1~2日乾燥させ、少ししんなりしたら手でもんで、葉っぱにたくさんの傷をつけます。これをビニール袋に入れ、室温の高めの場所(今回は日向に停めた車の中)で数時間発酵させ、最後にフライパンで乾煎りして発酵を止めれば出来上がり。
初回は発酵が足りなかったのか、紅茶というより烏龍茶に近い味わいに。そこで2回目は発酵時間をたっぷりとったのですが、発酵が長すぎると逆に香りが飛ぶとのことで、これはほとんど香りのない失敗作に。3度目のお茶はなかなかに素朴で良い香りの紅茶になりました。
また、昔から山で仕事をする杣人たちは、山に生えているお茶の葉をたき火で焙り、川の水を沸かしてその場でお茶を出していた、という話を聞き、茶葉を直火で焙るお茶も作ってみました。これはなかなか野趣あふれる、味わい深いお茶でした。
この方法を教えてくださった方によると、この方法なら特に季節も問わず、また茶の木でなくとも、ツバキ、柿などなんでもできるとのことでした。これから色々と試してみたいところです。
今はベランダでドクダミの葉を乾燥中。これもお茶になる予定です。
ところで、ドクダミの花が咲けば蛍の季節と言いますが、今月の初旬、白い花の盛りの頃に、町内でも有名な蛍スポットに出かけました。月もなく、ほどよく湿った夜で、木立に囲まれた清流に無数の蛍が乱舞している様は幽玄夢幻。いつまでもこのままで、と願わずにいられない風景でした。
「息が浅い」は「吐けていない」
元気な身体は、下腹部を中心に呼吸しています。
病気になったり心身がくたびれると、息が浅くなり胸や肩で呼吸するようになります。
整体師は、どんな時でも相手の息が深くなるように整体を行います。息が深くなれば、あらゆる異常は改善に向かいます。
だから元気になりたければ、息を深くすればよいのです。
ところが、息を深くするというのはなかなかに難しいのです。
深呼吸しようとすると、大体、息を吸おうとします。特に「下腹部で吸おう」とか「胸いっぱいに吸おう」と、意識して頑張れば頑張るほど、息は浅くなっていきます。
息を深くするには、まずは吐くことです。力を入れて吐き切るというよりも、頭や身体の力を抜きながら息を漏らすように吐いていくことです。まるで深い眠りに落ちるようにして息を吐き切ります。すると次の吸う息が自然と深くなり、全身の細胞の隅々にまで活力が行きわたるように感じます。
呼吸が浅いというのは、緊張によって十分に息が吐けていないということだと思います。
息が浅いと感じる人は、難しいことは考えずに、ぜひゆったりと息を吐き切ってみてください。
きっと自然と深い呼吸を体感できると思います。
※写真は散歩中にあぜ道で見つけたサボテンの花です。
整体は深い眠りのために
最近、朝起きると鳥の歌声がすごい。
ウグイス、ヒヨドリ、ツバメ、ヒバリ・・・
鳥の鳴き声で目を覚ますというのは優雅なようですが、朝っぱらから余りに騒々しいので笑ってしまうこともあります。彼らの寝起きの良さを見習いたいものです。
さて眠りの話です。
整体というのは受けて終わりではなく、眠って初めて完結します。
偏りを正すと、眠りが深くなります。その深い眠りが、身体の芯にあった硬直や疲れを癒すのです。
自分の身体を最終的に整えるのは、整体師ではなく自分自身であるということです。
普段から眠ることを大事にしていれば、健康になること請け合いです。
深い眠りに入るコツは、眠る前にのびやストレッチによって一通り身体を整えておくことです。
体が疲れすぎていても頭が働き過ぎていても深い眠りは訪れません。部分的な緊張や疲れを全身にならすことが大事です。
眠る直前にテレビやスマホを見たり、本を読むことも深い眠りを妨げます。視神経の緊張が身体をゆるめることを妨げます。寝酒も身体をゆるめるようでいて、実際には身体を鈍らせるだけで、逆に硬直を招くこともあります。
幼い頃は朝起きれば元気いっぱいで、その日一日溌剌と動いていたはずです。
それがいつの頃からか、眠っても疲れが取れず、一日をなんとなく億劫に過ごしてしまうようになります。起きながら眠り、眠りながら起きている、そんな毎日では生きてる甲斐がないというもの。
深い眠りこそ、溌剌とした生活のカギとなります。
さよなら、花粉症
福は内、鬼も内・・・これ整体の奥義なり!
整体の生みの親、野口晴哉先生のお宅では、豆まきの時に「福は内、鬼も内」と言っていたそうです。
これは整体の奥義だと思います。
首のコリを感じた時、人はしゃにむにそれをほぐそうとします。しかし多くの場合、そうすると消えるどころか、ますます強く感じるようになります。コリを嫌がれば嫌がるほど、皮肉なことにコリは強くなっていくのです。
病気や体調不良でも同じことが言えます。
もちろん「苦しい、イヤだ」と思うことは自然の反応なのですが、あまりにそれが強すぎると治癒の働きを逆に乱してしまうのです。
それは病気や不調を嫌がることで、本来は自分の一部であるそれらが、身体の中で敵と化してしまうからです。中に敵がいれば、当然、身体は緊張します。その緊張がますます病気や不調を悪化させるのです。だから病気や不調の時に、あまりにあれこれと手を尽くすことはお勧めしません。
病気や不調の時は、まずそれらをあるがままに受け入れることから始めます。
敵と見なさず、対立せず、友人のように向き合い、理解しましょう。
そうするとある時、ふっと症状がゆるむはずです。
コリであれば敵と思ってギューギューもまず、そっと柔らかく触ってみましょう。
その優しさがコリ君に伝わって、彼もきっとゆるんでしまうはずです。
「福は内、鬼も内」。そんな心でいれば鬼もすっかりニコニコして福を運んでくれるのではないでしょうか。
干し柿づくりと「こうじの木」
12月から年始にかけては乾いた空気の晴れた日が多かったので、干し柿、干し芋、干し椎茸に切り干し大根と、乾物づくりにいそしみました。
中でも今年がんばったのは干し柿づくりです。
干し柿用の、それは大きな渋柿を40個、皮を剥き、熱湯で消毒して、シュロの葉をさいたひもの両端に1つずつ結んで竿をにかけます。
このシュロひもが、使ってみるとなかなかに良いものでした。
干し柿にはシュロひもが昔からの決まりごとのようで、市場などでは渋柿におまけにつけているお店もあり、私たちが借りている畑にも小さなシュロの木があったので、今回試みに使ってみました。
渋柿が相当に大きいので、強度は大丈夫かな? と不安に思いつつ結んでみると、意外にもとても結びやすく、非常に強靭なのです。
また、11月にビニールひもで干した際には、暖冬の影響もあり、ひもの端が少しでも実に触れてしまうと、その部分の乾燥が遅く、そこから黴が生えてしまいました。
ところがシュロひもの場合、実と同じように乾燥していくので実に触れていても水分がたまらず、そして意外にも乾燥しても弱くなりません。しかも干しあがったらへたごと切り落として畑に返せるので、可燃、不燃とごみを仕分ける手間もないのです。
う~ん素晴らしい! と、一人でうなってしまいました。
さて、干した渋柿は2週間ほどで、オレンジ色でとろとろの「あんぽ柿」の状態になります。
この時点でもちろん美味しいのですが、さらに干すと茶色くしっかりと実のしまった「干し柿」らしい感じになります。濃縮した甘みは上質な和菓子のようで、今回はそれを目指すことに。
ところが、渋柿がとろっと柔らかなあんぽ柿になった頃、なんと小鳥たちに見つかってしまったのです。ベランダで「チイチイ」と鳥たちがやけに騒がしいと思ったら、そこには食べ散らかされた柿の残骸が…。
それはシュロひもで竿に干したものとは別に、取り込みやすいようハンガーを改造して3段のはしご状に干したものでした。考えてみればはしご型だと、下の段の棒が、上の段の柿を食べるためのちょうどよい留まり木になってしまうのです。
これは当たり前だと、慌ててこちらもシュロひもで結び直し、竿にかけてみたのですが…美味しい味を覚えてしまった鳥たちは知恵を絞り、竿の上からひもを手繰り寄せて柿をつついたようでした。
というわけで、もう少し干したかったけれど、今年の干し柿づくりはここで終了。
ところで、いつもは微笑ましい小鳥のさえずりを苦々しい気持ちで聞き、なんとか囲ってもう少し干す方法はないかしら…と思案していたとき、ふと学校で習った『徒然草』が頭を過りました。
「こうじの木」という段です。
人里離れた山奥に侘びた庵を結び、趣深く暮らしている家を見つけ、兼好法師は「かくてもあられけるよ(このようにも暮らせるのだなあ)」と感嘆するのですが、その家に厳重に囲われた柑子(みかん)の木があるのを見て、「この木なからましかば(この木さえなければ)」とがっかりする物語です。
盗りに来る人すらいない山奥で、それでもみかん泥棒を警戒して厳重に囲っているあさましさ…。
でもでも、はたして本当にそうだったのでしょうか?
山奥に暮らす人が、たまの旅人にいくつかのみかんを食べられることを嫌がるでしょうか? 人懐かしい山暮らしなら、むしろ喜んであげたいくらいが普通なのでは? では囲いは何のために? それはなんといっても猿、鳥、鹿、猪です!
まったくグルメな彼らは、果物を大事に食べることを知りません。美味しい所をちょっとかじっては次の実へ…食べるならせめて大事に食べて! と怒りたくもなるものです。囲いたくもなるものです。山暮らしの悩み事は今も昔も変わらないはず。だからきっとあのみかんの木は…と大昔の誰かさんに心を通わせてみるのでした。
※一番上の写真は、神山に大雪が降った時のものです。まるで雪国のようで、美しかったです。